2012年4月7日土曜日

花壇の中のガニメデ


 あのときもし、公園の花壇の中からガニメデが顔さえ出さなかったなら、こんなことにはならなかっただろう。そう思うと、今さらのように胸が痛む。
 薔薇の花の冠をつけたガニメデ、目を細めて気持ちよさそうに日向ぼっこをしているガニメデ、おいしそうに蚯蚓や、蜥蜴や、果物を頬張るガニメデのあのいびつな顔が、目に浮かぶ。
 それは日曜日の午後、高学年の孝史と美夏、そして妹のレイとの三人で、花水木公園を通り過ぎて行こうとしたときのことだ。
 孝史と美夏は、背中に塾の宣伝のイニシャル入りの紺色のバックを背負わされていた。塾の生徒の背中を利用して企業広告を展開しようとする、このわざとらしい青いバックも嫌いだったが、塾で先生に叱られた帰りで、ますます人生が嫌になっていた。
 この先生は、メガネをかけたイケ好かないデブの大学生で、
「あのさ。前も教えたろう、お前に。何やってんだよ。ちゃんと、教えたこと守ってくれよ。疲れるなあ、頼むよもう」と、せせら笑うように言われた。
 教室のみんなが笑った。笑い者にされた。半分はあいつのウケ狙いなのだ。毒舌が、自分の愛すべきキャラだと勘違いしているヤツ。死にたくなった。

 塾なんてしょせん客商売で、こちらが客なのに、あの教師はその辺がわかっていない。孝史は、後半の授業ではふてくされ、始終うつむき、講義は頭の中に入らなかった。
 帰り道も、すねて柵の端っこを蹴っ飛ばした。小さな竹の柵が、割れた。
「あ、いけないんだ、いけないんだ」と美夏がいった。
「いけないんだあ」と妹までが真似をした。
 最近、妹は可愛くない。まるで美夏が自分の姉貴のように、ふるまっている。
 妹のレイは、孝史と美夏の塾の帰りを狙って、帰り道の公園の門のところで待っているのだ。 じつは美夏がお目当てなのである。何でも真似をする。
「ちょっと待って」と美夏がいきなりしゃがみ込んだ。「猫じゃない?仔猫か何か、中にいるわ」
 確かに花壇の奥に何か茶色いものがいる。暗い縞のような模様が見えた。
「え、猫? 猫見たい」と妹が近寄る。
 膝を抱えて、美夏と並んでしゃがみ込む。隣にしゃがんで、にこにこしている。
 孝史はますます面白くない。
「猫なんて、いらねーよ、この世から」ぺっと唾を吐く。「猫、死ね。地球から、猫死ね」
「猫に、当たらないで」くるりと振り向き、美夏がいった。「あたし、猫派なんだから」
「何いってんだよ。第一、犬のが、格好いいだろ」第一のあとの第二を、どうしようと思った。「第二に……番犬になるし」と続けた。
「あたしも」妹がいった。
「だろ。レイは犬の方が、好きだよな」
「違うもん! あたし猫派だもん」
 妹は、口をとがらせ、反旗を翻した。
 兄は、むっとして唇を噛んだ。こいつ、猫派という言葉すら、今日はじめて知ったくせに。
 そのときの美夏の得意そうな顔ったら、なかった。
 顔をにんまりとなごませ、ヨシヨシと言いながら、孝史の妹の頭を撫でた。レイはうれしそうだ。
 もう、兄貴の面目丸潰れだった。ますます死んでしまいたい。
「うえっ」とつぜん、妹が妙な声を出した。
「猫じゃ、ないよーぉ」妹は、目を訴えるように大きく見開いて、立ち上がる。まだまだチビだ。
 孝史と美夏は、顔を見合わせた。
「やっぱり、捨て犬か」
「大変だ」妹が叫んだ。「キモイよ、これ。大変だ。大変だ。鰐だァ!」
 小さな体を捩らせて、全身で叫んだ。
「嘘だろ? 」
「鰐だ、鰐。鰐が、出たよー」
 妹は、物凄い顔をした。顔の輪郭から、目や口が、はみ出ているような顔だった。ここで怖じ気づいたら、男としての沽券にかかわる。もっともコケンが何を意味するのか、わからなかったけれども。
 孝史は手前に落ちていた大型の枝を拾って、花壇の中をつついてみた。
 何か茶褐色の生き物が、ぐるりと、体の向きを変えた。意外に、でかい。傍のツツジの小枝が折れる音がした。枝に触れると、固い。背中にこってりとした艶がある。
「亀だ」
「あ、やだ。これ、噛みつき亀じゃん。テレビでやってたよ」
 美夏が悲鳴をあげた。「誰かペットにしてたの、捨てたんだ」
 植込に一歩踏み込んで見ると、その怪物は、サツキの枝の隙間でのけぞるように首を反らせ、全身から殺気を放ち、こちらを威嚇した。
 体長は二十センチ以上はあるだろう。甲羅が古びた黒いミットのように、鈍くひかっていた。
「カミツキガメか。やべえ」
「危険だよ」
「カミツキガメ、きけん。カミツキガメ、きけん」
 妹は両手でメガホンを作りながら、馬鹿みたいに繰り返した。「カミツキ、カミツキ、血が出ちゃう」
「やめろ。うるさい」
「すぐに警察、一一〇番。カミツキガメは、危険です」
 はしゃいでいるのか、妹はふしをつけて歌った。
「頭、でッけえ。凄いな、この顔」
「凶悪犯みたい」
「ヤクザだな」
「目が小さいし」
「ヤクザのおじき、って感じだな」
「何、それ?」
叔父貴というのは、漫才師のボキャブラリーから覚えた。
「目が小さくて、鋭くて、怖そうだから。ヤクザのおじき」
「カミツキ、カミツキ、血が出ちゃう」レイが両手で砂を宙に舞わせた。
「うるさいよお前は。あ、砂が目に入った」
 異様な姿の亀は、平たくなった灰色の大きなエノキダケのような前脚を、踏ん張った。
 そして何を思ったか、脚をふんばって、くるりと振り向き、のそのそと退散を始めた。
「なんだこいつ、根性ないな」
 そもそも名前が怖いので、飛びかかってきたらどうしようと思っていたが、意外にも臆病そうだ。爬虫類のくせに、聡明にも負ける喧嘩はしないらしい。
 孝史はここで少しはったりを利かせようと、花壇の中にしゃがみ込んだ。
「危ないよ。噛みつかれるよ」
「カミツキカミツキ、血が出ちゃう」
「やめろってば。そのフレーズ」
 孝史は大きく深呼吸して、大胆にも亀の甲羅に両手を伸ばし、一息に甲羅の両端を掴んだ。
 きゃッ、と二人の女子は声を上げた。
 彼は、相手の頭も、脚も、こちらまで届かないことを確認してから、鼈甲色の鞄のような塊を、ゆっくりと抱きかかえた。何が詰まっているのか、けっこうな重量感がある。厚みのある甲羅も不思議な感触だ。乾いた日の温もりがしていた。


 奇怪なその亀は、サツマイモのような太い首を、ぐいと斜めに反らして伸ばし、四肢を動かしながら、大きく桃色の口を、パックリと開いた。 
「……ガメラだ」と美夏が呟いた。
 大きさは、赤ん坊ほどもある。二本の鋭い牙がある。顎を遠ざけてないと、噛まれそうだ。
 さすがに怖かった。
「なんだよ。何もできねえでやんの」
 少年は、馬鹿にしたように、うそぶいた。
「放しなよ、タカシ。まじで、やァばいって」
 美夏が大きく目を見開いて、両手でバツ印を作って口元を押さえた 
 レイは隣で、その格好をそのまま縮小して、真似している。正しくコピーするためか、ときどき姉貴分のかっこうを、ちらちらと覗き見している。
「ふうん。なかなか、ふてぶてしい顔つきだな。よし。コイツ、気に入った」
 敵将を評価してやる勇者の口調で、孝史は厳かに呟いた。
「どうすんの?」
「飼うんだよ。しょうがないだろ。コイツこのままだと、保健所に殺されちゃうよ」
「犬じゃなくても、保健所が殺すの?」
「何でも殺すよ、保健所は。ホームレスでも、フリーターでも、みなし子でも、役立たずはどんどん殺処分するんだ」いい加減なことを言った。
「名前は、何にしよう」美夏が腕組みをした。
「カメオ!」と妹。
「うはっ。アクセサリーみたいで、お洒落かも」美夏。
「つまんないよ。……もっとカッコイイの、ない?」孝史がうんざりした口調でいった。
「じゃ、マイケル」美夏が叫んだ。
「なんで」
「わかんないけど。とりあえず、かっこいいじゃん、マイケル」
 美夏はちょっと美人で可愛いのに、発想はつまらなかった。
 孝史は、カミツキガメを塾のイニシャルの入った紺色のバックの中に入れると、そのまま本を上から被せた。中で爪を立て、がりがりともがいている。背負うと、異常に重たかった。

 公園と住宅街を結ぶ歩道橋を、無言で足早に歩いていく。
「ヤバイよ、絶対。破けたらどうすんのよ」
 わざとこれみよがしに無茶をやる孝史の後を、美夏は、息を乱して追いかけてきた。
 途中、舗道脇で、向こうから来る自転車とぶつかりそうになった。
「おい」と低い嗄れた声で、いわれた。
 黒いキャップにサングラスをつけた痩せた男が、片脚を地面につけたまま振り向いて、何か小声で凄まれた。うるさいなあ、どうでも良いや、と孝史は思った。黒メガネをかける奴は、案外、気が小さい奴だという。自転車を停めて、首を捻ったままでこちらを凝視し、凄みを利かせている。でも自分の背中のバックには、恐ろしいカミツキガメが隠れているのだ。孝史は、何となく無敵になったような気がした。

 帰宅してからは、物置から古いプラスチックの盥を引きずり出して、水を入れ、上から段ボールを被せた。とりあえず、庭の端から蚯蚓を掘り出し、冷蔵庫の残り物のソーセージを入れてやった。
 亀は中でごそごそと動いている。熱心に仕事をしているような音だ。盥は、建物との間の日陰、できるだけ裏庭に近くて、窓から隠れた場所に隠した。
 その晩、孝史が二階の父親の書斎で、こっそりと科学の月刊誌の天体特集を眺めていたら、ちょっとよさそうな名前が飛び込んできた。父親は家電企業に勤めているが、科学雑学を眺めるのが趣味なのだ。
 赤い目玉のような模様のある木星のイラストが美しかった。木星の衛星に「ガニメデ」という星がある。蟹の化け物みたいだが、あのカミツキガメの不細工な顔には、なかなかにふさわしい。
「木星の衛星って、何があるか知ってる?」
 階下に戻り、リビングで新聞を読んでいる父親に、それとなく聞いてみた。
「ああ、エウロパと、イオだ。あとはなんだっけ。ガニメデかな。駄目だな、すっかり忘れてる。もと天体オタクとしたことが」
「ガニメデ……」なんだ知ってるのかと、少しがっかりした。
「うむ。もともとは、ギリシャ神話に出てくる美少年の名前だよ。それに確か、太陽系の衛星の中で、最もでかい星のはずだ」
 父親は得意そうに応えた。
 思考が一瞬、とまった。吹き出しそうになった。
 ガニメデは、大蟹の怪物ではなかったのだ。全然、イメージが違う。しかも太陽系最大の衛星でもあるという。なかなかいいネーミングだ。少なくとも日曜日の午後、塾の教室で嫌味を言われたことは、すっかり忘れることができた。

 月曜日、登校前に縁の下の盥の中を覗いた。すっかり蚯蚓は消えていた。
 学校で、カミツキガメの名を「ガニメデにする」というと、美夏は「……変なのぉ」といった。
 「やっぱりマイケルじゃ、駄目なの?」うらめしそうにそうった。なんとなく、不服げだった。 
 厳めしいごつごつとした感じが、カミツキガメにはふさわしいのだと、孝史は説得した。
「な。だから、ガニメデにしようぜ」
「……ゆずるよ、そんなに言うならば」
 意外にも美夏は、妥協した。後ろ手をして、うつむいて、片脚のつま先を立てている。
 あの小さな怪物の出現で、少し二人の力関係が、微妙に変化したらしい。
 ガニメデは、木星の衛星のひとつに過ぎないくせに、惑星である水星よりも大きいという。
 ギリシャ神話に出てくる美少年の名前なのに、カミツキガメのガニメデは、目が小さくで、下顎が大きくはみ出て、どう見ても凶悪犯か、ヤクザの親分か、少なくともその「おじき」級の凄味なのだ。

 ガニメデは、ちょっと見には怖そうな顔をしているわりには、おとなしかった。ときどき、病気なのかも知れないと思う。獣医に診せると、危険な放置ペットとして取り上げられてしまうかも知れない。そうしたら、殺処分だ。少し刺激すると、カッと口を開いて威嚇する。凄い牙が並んでいて、これだけ写真にとったら皆びっくりすることだろう。しかし、性格的には諦めが早く、淡泊で、芝生の上に下ろすと、ぐるりと向きを変え、藪の中へと逃げ込もうとする。
「お前、こんなに目立つキャラなんだから、隠れたって駄目だってば」
 孝史は慰めるような口調で笑った。
 蚯蚓、ソーセージ、果物、何でも食べる雑食性だった。
 驚いたことに、この変な亀は、「ガニメデ」と呼ぶと、サツマイモのような顔を、不器用に、おずおずと、こちらに向けるようになった。そのうち、「おいで、ガニメデ」というと、いかにも納得し、引き受けたような顔をして、右脚を踏ん張り、左脚を踏ん張り、のそりのそりと、ついてくるようになった。確かに智恵はあるらしい。
 顔はちっとも可愛くないのに、なんとも可愛い、変な奴……。


 家族にもレイにも内緒で、散歩に連れてゆく。針金で胴のところを結わえて、細いチェーンをけた。公園の脇の斜面になった雑木林。遊歩道の下の藪で隠れて見えない。散歩には美夏も同行したがった。
「友達に言うなよ」
「うん」と美夏はうなづいた。「犬みたいに慣れてきたね」と感心している。
 ガニメデを調教して馴れてくればくるほど、美夏の尊敬が高まるような気がした。

 悪い気はしなかった。妹も、以前より兄貴を尊敬しているように思われる。「カミツキガメを慣らすことのできるウチのおにいちゃんは、凄い」と思っているらしい。どうせレイの気持ちは、美夏のコピーに過ぎないけれども。
 こんな醜いいびつな顔をした奴が、自分たちのアイドルだという逆説が、孝史は可笑しかった。夜中ひとりで、それを思うと、クククっと笑いが込み上げてくる。枕を抱きしめ、拳で叩き、押さえきれず、「あははは!」と声が洩れる。
 いきなりドアが開いて「孝史。あんたなに笑っているの。気持ち悪いな」と母親が覗いた。
「ちょっと、漫画見てた」
「宿題、ちゃんとやったの」
「うん」
「だったら、早く寝なさい」
「いま、ちょうど寝ようと思ったところなのに。もう、うるさいなあ」

 日向ぼっこをしているときは、いかにも気持ち良さそうだった。天気のいい休日、花水木公園の雑木林で、紐を付けたまま、亀を散歩に出した。
 レイには内緒で出てきた。あいつがいない方が、なんとなく楽しいし、美夏がしおらしくなる傾向にあるのだ。隣にレイがいると、ちょっと姉貴風を吹かす傾向にある。
「こんなお前がなあ、世の中に出すと、悪者なんだもんなあ」
 亀の頭を軽くつつく。
「世の中、間違ってるよね」
「だよな。違うんだよなあ、マスコミは。何も分かってないよ」
「分かってない、分かってない。ちゃんとカミツキガメのこと、取材してないんだよ」
 美夏は、しゃがんだ格好で、ひとさし指を怖る怖る伸ばして、ガニメデの甲羅をさわった。
 最初、ちょっと触ってから、すぐに引っこめていた。面白くなってきたのか、何度もそれを繰り返し、だんだん長く手を置くようになり、ついには、芝生に寝そべった格好で、甲羅の上に頬をあてるようになった。

 Tシャツの背中がめくれて、少女っぽいきゃしゃな裸の脇腹まで、覗いている。本人は、そんなことには、まったく気づかずに。
「お前、けっこう凄いな。やることが」
 孝史は、冷汗が垂れるような気がした。
「女だからね。そういうもんよ」
 美夏は、甲羅に頬ずりして、ゆっくりと撫でている。目を薄く閉じた。
 孝史は少し、どきりとした。

 ガニメデは、首をのばし、何が起こったかわからないけれども、どうやら、自分が愛されているのを自覚しているらしい満足げな目で、空を見ていた。
 青空や、雲や、鳥たちが見えているのか、見えてないのか。単に心地良い微風に、顔をかざしているだけなのかも知れない。それでもとても幸せそうに見えた。さすが「おじき」の余裕たっぷりだった。

 風が吹くと、薔薇の花びらが、はらり、はらりと、芝生の上に、散った。あちらこちらに落ちた夢の切れはしのような花びらは、尖った針のような芝の葉先で、ふんわりと支えられていた。
 美夏は、芝生にしゃがんで、胸を膝小僧に押しつけるようにして、薄ピンク色の花びらを一枚一枚、集め始めた。それからガニメデの頭を、水道の水で少しだけ濡らしてやって、薔薇の花の冠を作った。
 亀はぐいッと、頭を反らす。
「ははッ。可愛い。亀の王様」
「ガニメデ一世」
「あ、ガニメデ一世大王、走ります。走ります」
 何を思ったか、カミツキガメはのっそりと、始動した。
 ずるり、ずるりと、雑草を踏みしめ、先を急ぐ。
 藪の向こうの小道を越えると、池があった。
 まばゆい光を反射している水面に、滑り込む。まるで小さな進水式だ。
 紐がついているので、そのまま水に入らせてやる。余裕たっぷりの見事な泳ぎっぷりを見せた。水に浮かんだガニメデは、薔薇の冠を頭上に乗せ、しばらくそのままにしていたが、とうとう堪えられなくなって、首を水に突っ込んだ。

 そのとたん、頭に貼りついていた薔薇の花びらは、波紋の中に、ゆっくりと放射状に広がっていった。水中花が開くように、ピンク色の花弁が四方に放たれた。少し先まで泳いでいって、物憂くたゆたう水面に、亀はときどき頭を覗かせた。
 枝を透かした午後の木洩れ陽が、明るい水面にしたたり落ちている。ときどき鯉が花びらをつついた。

「ねえねえ。タカシ、こないだのあいつだよ」
 美夏が中腰になって、シャツの端を引っ張る。
「え? あッ……」
 黒いぴったりしたTシャツを着て、黒いキャップをかぶり、温かいのに黒い革手袋までした気障な奴。あまり見かけない高そうな自転車を、ぴかぴかに磨き上げて男は乗っていた。
 そいつは、一気に公園の中の坂道を、マウンテンバイクのような勢いで、降下してくる。雑木林と池との間を通っている狭い散歩道だ。池の脇は急な傾斜になっている。
 それはいかにも二人を意識した、威嚇的な振る舞いだった。わざと池畔でガニメデと遊んでいる孝史たち彼らの近くまで寄った。そこで速度は落とさず、一瞬腰を浮かすと、ギヤを入れ換え、凄まじい勢いで対面側の坂の方へと登っていった。ゆるやかなUの字の道を底まで降りると、そこで気合いを入れ、さらに反動を利用して、再びグググッっと上っていった。いかにも走り慣れているようだった。
 気障ったらしい黒ずくめの男は、明るい緑陰のトンネルの向こうへ、小さく消えていった。
「工作員だ」と孝史はいった。
「なに、それ」
「北朝鮮工作員。俺たちのやることを見張っているんだ」
「どうして?」怖そうに美夏は眉をひそめる。
「わかるもんか。あいつら、極秘の仕事をやってるんだから。あの格好は、スナイパーだな」
「……ふうん」
 スナイパーが何かを質問してくれないので、孝史は少々がっかりした。興味がないのか、あるいは、それ以上質問するのが美夏としては、不安だったのかも知れない。


「見せてよ。カミツキガメ」
「知らないよ」
「いいから。見せてってば」
 いつのまにか知られてしまったのか、孝史は学校の渡り廊下で質問攻めにあった。どうして知られてしまったのだろう。
「そのカミツキガメって、一体なんのことかな。さっぱりわからないな」
「嘘だあ。減るもんじゃなし。ケチ」
 危険なペット扱いなので、人には教えたくはなかった。誰にも言ってはいない。犯人は、美夏かレイしかいないはずだ。それとも公園で、誰かに見られてしまったのだろうか。信頼できる友達も、両親も、敵のように思われた。世界が疑わしくなってきた。
 孝史は次第に無口になっていた。
 授業も上の空で身が入らず、黒板よりも飛行機雲が気になった。全体に注意散漫になってきたのか、試験の成績もじりじりと下がってきた。
「あのさ、俺に恥かかせんなよ。このクラスにいて、この点数はないだろ」
 模擬テストの成績が下がったので、塾のメガネデブの先公に、名指しでいわれた。「……なんだよ、バイトのくせに」と孝史は呟いた。

 このところ、池で泳いでいないせいか、ガニメデの方も元気がない。盥の中であまり動かないのが心配だ。甲羅の中に閉じこもったまま、首を出さない。餌として与えた桃色の蚯蚓も、薄く張った水の底で、S字になったりQの字になっりして、のたくっているままだった。
 それはまるで、孝史自身を映し出す鏡のようであった。甲羅型の鏡――。
 朝、孝史は洗面台で自分の顔を眺めてみた。顔がごつごつしてきた。トゲすら生えているように見える。目の錯覚だ。カミツキガメの顔をしてみた。「おじき」とつぶやく。少し可笑しい。けれども笑ったあとで、しんみりと淋しくなった。ガニメデは、このまま死んでしまうのだろうか。もとは野生だったくせに、弱い奴。
 勉強部屋に戻って、布団をかぶった。
「美夏もレイも、信じられない。あいつらが、チクったんだ」
 彼は布団の中に閉じこもり、唇を噛んだ。レイとは、口を利かなくなった。
 最初は何か悪戯をしかけられているのだろうと思ったのか、妹はにやにや笑っていた。そのうち、本当に無視されているのに気がつくと、だんだん泣きべそになっていた。それでも冷酷に無視してやった。

 孝史は部屋の中で、自分の作りだした暗い繭の中に閉じこもった。それは次第に霧から繭へと変化し、さらに固い褐色の甲羅へと角質化した。
 ――ベットで布団を頭から被り、手を引っ込め、脚をひっこめる。手だけ、出してみる。少し肌寒い。今度は首を出して、上に反らし、口をカッと開けてみた。カミツキガメの気持ちになってみる。やい、ガニメデ、お前は何で噛みつくんだよ。他の生き物が怖いのか。弱虫め。本当に強いのなら、ゾウガメのように、堂々としているもんだぜ。
 孝史は空想の中でガニメデになりきり、一体化してみた。
 カミツキガメは、悲しい。醜く危険で獰猛だ。どうしてそんなに凶暴なふりをするのだろう。わざわざ憎まれっ子になるのだろう。孝史は布団の中に閉じこもり、外の世界を遮断した。亀の格好をしたまま、亀の見る永遠の夢を見ようとして、そのまま眠ってしまった。

「もう、八時じゃないの。どうしたの孝史」
 カーテンが乱暴に開かれた。まぶしい。母親のキツイ口調だ。味気ない現実の世界だ。
「だるい。今日は休むよ」
「駄目よ、ずる休みじゃないの。勉強、置いてかれちゃうわよ」
「どうでもいい……」
「どうでもよくは、ないわよーォ。ちゃんと布団から出てきて、説明してちょうだい!ほら、ここに座って。どこか悪いの。それとも、学校、行きたくないの。あんた、ママのこと、泣かせたいわけ?」
 母親はベット脇に立ち、布団を毟りとろうとした。
 孝史は布団をわし掴みにして、それを奪われまいとした。布団をめぐる攻防戦だ。布団の甲羅の中で、身を縮かめるようにして、外の世界を閉ざした。

 美夏から連絡があった。少し言い合いになった。
「あたし、ガニメデのこといってないよ」と訴えた。「木村君たちだよ。林の中で見てた」
 目撃されていたらしい。
「多分、ガニメデをちゃん泳がしてないから、あいつ、調子が悪いんだと思う」といった。 
 美夏は散歩につきあうといった。生意気にも、自分がいた方がガニメデも和むともいった。
 塾の青い背負いのバックに亀を入れた格好で、二人で花水木公園とへ入った。
 何だかもがき方にも、元気がない。冬眠には、まだ早いはずだ。
 いつのまに感づいたのか、レイもついてきた。
 路地から路地へと移動して、巻いてやろうと思ったけれども、時間差を利用したのに、行き先が決まっているので、待ち伏せされてしまった。
「いいじゃん、一緒に行けば」と美夏はレイを手招きした。
 最近はあいつも智恵がついている。
「カミツキガメ、きけんです。カミツキガメ、きけんです」「カミツキ、カミツキ、血が出ちゃう」
 妹は手でメガホンを作って、歌うように繰り返す。
 兄がやめろといっても、「だって、テーマソングだもん」といって、また続けた。
 ガニメデは最初のうちはおとなしくしていたが、池で泳がせてもらえるのかと気付いたらしく、途中から、ガリガリ、もぞもぞと動き出した。

 美夏と孝史はその音を聞いて、しめたと思った。
 池を前にすると、じっと考え込んでいたが、突如、するりと入った。
 池で泳がせてから、小さな半島のように突き出した弁天様の林で、日向ぼっこさせた。高校生のカップルがよく使っている隠れた一画だ。今日は誰もいない。
 ガニメデは何か考え込むように、うつむいて草の中に顎をつけていた。目をうっすらと閉じてゆく。甲羅が少しずつ乾いて温まってゆく。腕立て伏せでもしそうだったが、そのままだった。
 ぼんやりとした少しだけ悲しげな時間が過ぎてゆく。
 三人は、膝を抱えた格好で、ゆらりゆらりと光を反射している水面を眺めた。

 力を失った太陽が、卵のような黄色味を帯びて、雑木林に差しかかっていた。
 帰ることにした。
 途中、公園の出口に近い芝生の平らになったところで、少し歩かせた。しばらくここには来られないかも知れない。何だか名残り惜しかったからである。
 その時、厭な気配がした。
 振り向くと、黒メガネのスナイパーがいた。奴は十メートルぐらい背後で、自転車に跨いだままの格好で薄笑いを浮かべていた。
 美夏は「あいつだ。工作員だ」と小さく叫んだ。「やばい」とレイが膝を叩いた。


 孝史はすぐに重たい亀を持ち上げ、バックに詰める間もなく、歩き出した。
 焦燥で目の前が黄色く染まった。
 歩道橋を過ぎれば、住宅街のどこかの細い路地に入ることができる。余所の家の庭にでも潜り込めばわからないだろう。
 三人の後ろを、のろのろと不吉な自転車はつけてきた。
 孝史と美夏は、おのずと足早になる。レイが泣き出しそうになるのを堪えている。自転車の男は黒い影のように、音もなく寄ってきた。
 男はメガネを少しずらすと、しわがれ声でいった。
「俺はな、一度うけた屈辱は、決して忘れない。必ず復讐してやる」
 サングラスの男は、自転車を林に向けて倒すと、そのままラグビー選手のように背を屈めてやって来て、タックルするようにしてガニメデを奪いとった。「相手が、誰であっても」
 冬でもないのに革手袋をした手で、亀を抱えた。孝史が殴ろうとすると、男は亀を脇に置いて、黒い手袋をした手で、手首を奪った。口をひねり、嘲笑的な顔をしてみせた。サングラスを透かして見える目が、笑っていない。
「やるのかよ。やってみろよ」
 低い絞り出すような声でいった。両手を動かすと、手首を捻られ、痛みが走った。横目で見ると、亀は草地の中を反対側に逃げようとしていた。
「お前に、絶望ということを、教えてやる」
 黒ずくめの男は、圧倒的な強さを見せつけた。手出しはせず、見下ろして、腹で押しつけれてきた。殴って来ないところがずる賢い。固い腹筋と胸板が、自慢のようだ。美夏が追いかけてきた。レイが大胆にも、石を投げた。男に当たった。チッと舌打ちする。
 黒いスナイパーは、亀を抱えたまま、歩道橋の上まで来ると、勝ち誇ったようにこちらを見て、
「お前らのために、絶望を――」と叫んだ。「……ぜつぼうを」
 男はガニメデを、両手で持ち上げた。
 太陽が、亀の甲羅の輪郭を、日蝕のように暗く縁取った。
 通行人は誰もいなかった。
 車の騒音、遠いざわめき、すべての音が制止した。 
 ガニメデは首をのけぞらし、宙で四肢を伸ばしてもがいていた。
 三人は、歩道橋の入口で青ざめていた。
 男は両手を隙間に差し出すと、こちらを見て薄笑いしたまま、手を左右に、放した。それは手品師のように、冷静で、静かで、美しい手つきだった。
 その直後、パカッとも、パシュッとも、グシャリともつかない、不気味な音が下で響いた。
 世界が割れた。
 空気が籠もったような、路上で何かが潰れた感触の鈍い絶望的な音だった。
 血の気が引いてゆく。「あ、ああ」と孝史は唸った。何か強い磁力に惹きつけられるようにして、孝史は身を乗り出した。歩道橋の下を覗いた。
 鮮紅色の濡れた塊と、灰緑色の残骸が、液体とともに、飛び散っていた。
 ううう、と悲痛な声が突き上げた。脚から力が抜けわなわなと体が崩れる。
 再び、騒音が戻ってきた。
「ちくしょう」
 くるりと振り向くと、黒ずくめの帽子の男は、サングラスを外し、冷たい目で孝史を睨んでいた。首を捻り、気持ちの悪い、極端な笑顔をしてみせた。
 投げキスでもするような小さなおちょぼ口をし、声を出さずに「ぜ・つ・ぼ・お」といって、ニヤついている。ニカッと笑う様は、まるで狂った人間のようだ。亀を殺すために生きているような奴だった。あいつ、わざときちがいのふりをしているんだ、と孝史は思った。
 通行人が不審そうに見ているが、男はまるで関知しない。
 スナイパーは、両手をひらひらさせながら、妙な腰つきで三人の脇をすりぬけると、再び、黄色い顔を横に向けて、気持ち悪い笑顔をしてみせた。
 孝史は悔し涙を流しながら、後ろから蹴りを入れたが、軽く足で払われた。孝史はフェンスにに攻め込まれ、胸のところに、片膝をぐりぐりと強く押しつけられた
「言うんじゃねえぞ。誰にもな」無力感を感じた。圧倒的な体力差だった。
 涙が流れて、仕方なかった。
 男が公園の方に去ってから、レイが階段のところまで行って、身を乗り出して叫んだ。
「ああっ。車がガニメデを轢いてゆくよー。どんどん轢いてく。体が散らばってるよー。カミツキ、カミツキ、血が出ちゃう」
「もういい。やめろレイ」
 あの交通量では、死体を片付けることすら出来なかった。
 ガニメデ――あんなに可愛くない顔をしながら、なんとも可愛かった奴は、この世にもういない、そう孝史は思った。
 歩道橋の背景の公園の樹木が暗緑色にゆれて、白い路に日が強く照りつけていた。

              *

 その夜は、暗い興奮で眠れなかった。
 口をすぼめて「ぜ・つ・ぼ・お」といったあの男の嫌な顔が、記憶にこびりついて、剥がれなかった。いくら寝返りを打っても、毒みたいな液体が、胸でとぐろを巻いている。孝史は、布団を甲羅のように被り、亀のように手足を引っ込めた。
 ……薔薇の花の冠をつけたガニメデ、目を細めて気持ちよさそうに日向ぼっこをしているガニメデ、おいしそうに蚯蚓や、蜥蜴や、果物を頬張るガニメデのいびつな顔が、目に浮かぶ。
 その晩、いろいろな夢を見た。粘っこいような、暗いような、不快な夢だった。
 深夜をかなり過ぎて、ようやくひどい疲労感の中で眠りに落ちた。
 ――そして、いつものように、朝が来た。
 登校の途中、しわしわとした太陽の光が体に染みこみ、辛い気がした。そこはもう、ガニメデのいない、ざらざらした世界だった。
「タカシ、気を落とさないで」
 朝、校門のところで美夏と出会った。
 昼過ぎには雨になるという曇天だった。
「うん」
「自殺するんじゃないよ」
「しないよ」
 二人とも、次第に小走りになった。
「あいつは、自分の絶望を、人に伝染そうとしたんだよ」
「そうかも。……でもお前、凄いこというな、ときどき。冗談はつまんないのに」
「あのとき、メガネはずしたでしょう。小さい、しょぼしょぼした、悲しい目をしていた。工作員でもスナイパーでも、なんでもないよ」
「知ってるよ。もちろん、みんな嘘さ。でもヤツの顔は見なかった」
 他の生徒達も焦って、早足で昇降口に急いでいた。
「ガニメデは死んだげど、あたしたちは……生きていかなけりゃ、ならないの」
「ああ。わかってるよ」
 孝史は、うつむいて帽子を目深にした。「わかってるさ」
「授業、始まるよ。走ろう――」
 美夏はそういいながら、孝史の手をとって、走り出した。
                           

                「花壇の中のガニメデ」(了)    



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