現役エホバの証人が擁護するー新世界訳聖書批判に対する体系的反論 - politeness
本題に入る前に、過去ブログについて言及しておきます。ほとんどの過去ブログで加筆しました。その理由は、より詳細な説明を加え、読者の理解を促進させることにあります。よろしければもう一度全体をご参照ください。加えて、便宜上幾つかのブログを統合しました。今後も必要に応じて加筆・統合するかもしれません。
本題に入ります。新世界訳聖書に対する代表的批判について過去ブログで個別に取り上げてきましたが、取り上げなかったものも含め、こうした批判を体系的に4つに分類することができます(重箱の隅をほじくるような批判は除外しています)。今回は個別的ではなく、体系的に論じていますので、ここで述べる原則は、あらゆる批判に対応できるものとなっています。
(1) 字義訳していることの誤解。
新世界訳聖書は字義訳を特徴としていますので、他の聖書と表現が異なる場合があります。
「論 245ページ 5節 新世界訳 」引用文
それはどのような翻訳ですか。一つには、主として元の言語の正確な字義訳です。翻訳者が重要ではないと考える細かな部分を省略したり、役に立つと思う考えを加えたりするぞんざいな意訳ではありません。研究者に役立つように、幾つかの版には広範にわたる脚注が載せられていて、道理にかなった二つ以上の表現に訳出できる場合、脚注には異なった読み方が示されており、ある訳し方の根拠となる特定の古代写本も幾つか挙げられています。
この種の批判の多くは誤解に基づくものと思われます。
(2) 二重訳しているという誤解。
翻訳委員会は、英訳から他言語訳に翻訳する場合、原語を広範囲にわたって参照しています。
「目 07/11 14ページ 聖書はこうして現代まで伝わってきた 」引用文
エホバの証人の発行した「新世界訳聖書」の英語版は、匿名の委員会によって、原語から直接に訳されました。次いで、おもにこの訳に基づいて他の60ほどの言語にも翻訳されました。その際、原語の本文との比較も広範囲にわたって行なわれました。「新世界訳」は、原語の本文の意味を正しく伝えられる限り、字義どおりに訳すことを目指しています。翻訳者たちは、原本が聖書時代の読者にとって分かりやすかったのと同じほど、聖書が現代の読者にとって分かりやすいものになるように努めます。
この種の批判も誤解に基づくものであると思われます。
(3)一部の文を書き換えていることに対する誤解
新世界訳聖書は字義訳ですが、字義訳だと差別的その他適当ではない表現になる場合、自然な表現を用いています。
「 塔08 5/1 19–20ページ 聖書の良い翻訳―どのように見分けられますか 」引用文
イエスが有名な訓話の中で用いた一つの表現は、英語ではよく、「祝福せられたり、霊において貧しき者」と訳されています。(マタイ 5:3)しかし多くの言語で、この表現をそのように字義どおり訳したのでは、意味があいまいになります。言語によっては厳密な字義訳にすると、「霊において貧しき者」とは精神的に不安定な人、もしくは活力や決断力のない人を意味しているようにも取れます。しかし、イエスがここで教えていたのは、人の幸福は身体的な必要が満たされることにではなく、神の導きの必要性を認識することにかかっている、という点でした。(ルカ 6:20)ですから、「自分の霊的な必要を自覚している人たち」とか「自分に神が必要であることを知っている人たち」という訳のほうが、この表現の意味をより正確に伝えています。―マタイ 5:3; 「現代英語による新約聖書」。
他の聖書は、このような訳出を頻繁に行っています。こうした事実を無視して、ことさらに新世界訳聖書を批判するのは失当です。
(4)一部の語が本来の意味と異なっているように思える誤解
この種の批判が全体の多くを占めています。しかし、これらの個所は、文法的・語法的にどちらにも訳せる部分なのです。過去ブログでは、その中の代表的な部分であるヨハネ1:1、ヘブライ1:6、ローマ9:5、ヨハネ8:58を例にして論じましたが、指摘されているその他の個所も同様の手法で反論できます。
ものみの塔行間逐語訳と新世界訳通常版の表現の違いが指摘されることもありますが、ヨハネ1:1、ヨハネ8:58を例にして説明していますように、直訳が筆者の言いたいことを必ずしも正確に伝えているとは限らないのです。直訳以外の文法を適用させるべき場合があるのです。行間逐語訳は翻訳というよりも、(多くの場合多義的意味を帯びる原語の)直訳の集積にすぎません。したがって、行間逐語訳が正しくて通常版が間違っているという主張は、文法法則に対する理解に誤りがあります。
「論 171ページ 3節 三位一体 」引用文
ある箇所が文法的には二通り以上に翻訳できる場合、どれが正しい訳ですか。それは聖書のほかの箇所と一致した訳です。もし、聖書のほかの部分を無視し、自分の好きな訳の特定の節を中心にして自分の信条を組み立てるなら、その人の信じている事柄は実際には神の言葉ではなくて、自分自身の考えか、もしかすると別の不完全な人間の考えを表わすものとなります。
一般的に、翻訳作業というものは、筆者の主張したいことを文脈や書物全体から認定しつつ、ふさわしい訳語を選択していく高度な作業なのです。聖書翻訳も同様です。翻訳者には、聖書的に奥深い知識が要求されてきます。単に原語に精通しているだけでは、到底不十分なのです。
なお、これらの幾つかの部分で、他の聖書も新世界訳と同様に訳していることを過去ブログで指摘してきました。つまり、必ずしも新世界訳特有の問題ではないのです。
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